Urbanus2のブログ

個人的な趣味全開のブログであるため、読む人をかなり選ぶことでしょう。その辺をご理解いただいた上で拝読していただければ恐悦至極です。

「みんな大変なんだよ」と人は言うけれども

以前、とある人のツイートを見て思ったことがこの記事の発端だが、それと同様のことを僕も前から思っていた。それを今回はつらつら書いていこうと思う。
 それは2011年の震災の時である。地震津波による被害は、僕の家や住んでいた地域では少なかった。もちろん地震による家具や食器の倒壊や道路の陥没、停電や断水といった被害はあった。しかし、それよりも問題となったのが、遠く隔ったはずの場所から飛んできた放射性物質である。
 放射性物質により、僕は故郷を一時的にではあるが失った。生まれ育った家にも帰ることはなくなった。…このように書くと、この状況をかなり悲観しているように思われる。確かに悲しいのは悲しいのだが、所詮「そう遠くない将来の、いつか」は出て行く場所だ。その「いつか」が思っていたよりも唐突に、早く訪れただけの話である。それに現在では帰ろうと思えば帰ることだってできる。その道を僕は選ばないだけである。——そう頭で理解・納得してはいても、たまに村の畦道や竹林、中学校の校舎やその近辺を思い出さないこともない。

 ともあれ、僕は故郷を離れざるを得なくなった。その際のことを僕は恐らく生涯忘れないだろう。「あの村から来たんですか?」という言葉と、警戒心を宿した瞳。「悪いけど、君の住んでいたところはもう人の住む場所じゃないよ」という「暖かい」「励まし」の言葉。僕と弟だけが親戚の家に避難する際の(結果的に一時的なものだったとはいえ)、今生の別れであるかのような両親の表情。今でも鮮明に思い出せる。思い出さざるを得なくなった。
 震災後には色々とインタビューのようなものも受けた。そのほとんどで為される「今どのようなお気持ちですか?」という質問に、僕は「特に何とも言えない」というような、曖昧な返答を繰り返していた。今思い返してもあの頃は特別落ち込んだり、悲しんだりしていなかったように思う(周りからどう見えていたかは分からないが)。一変した生活や環境を受け入れ順応するのに必死で、落ち込む余裕もなかったのかもしれない。ただ心のどこかに、「同情なんかされてなるものか、お前たちに俺の何が分かるというんだ」という反発もあった気もする。
 変わってしまった生活に徐々に慣れていく、慣れていかなければいけない中で、「みんな大変なんだよ、だから君も頑張らなきゃ」といった言葉をかけられることも増えた。そのときに僕の中の何かが弾け飛んだ。
 「みんな」って誰だよ。震災や原発の被害にあった奴らか? それともなんの関係もない場所でのほほんと暮らしてる奴らか?
お前は自分の故郷を否定されたことがあるのか? 「あの村から避難してきた」という理由だけでアパートを貸し渋られた経験は? 何の咎もなく避難せざるを得なかっただけなのに、避難先でいじめられた奴らの苦しみをお前は知っているのか? 避難したら避難したで「被害者面しやがって」と言われたことはあるか? お前は俺たちの一体何を知っているんだ。お前らは何も知らない、知ろうともしないくせに、勝手に俺たちの大変さを決めてんじゃねえよ。

 …そう言いたかったが、言ったところで何も状況は変わらないことは分かっていた。そのため、ただ口角を少し上げて、目を細め、目尻をやや下げながら「そうですよね」と返すことしかできなかった。

 震災からおよそ9年が経った。それが早いのか遅いのかは分からない。僕の周りには僕以外にも、震災によって不可逆の変化を被った人が数多くいる。それぞれに、それぞれの大変さがあった9年だったろう。お疲れさまでした、本当に。
 今では「みんな大変なんだよ」論に当時ほど激しい怒りを抱くことはなくなった。ただあの怒りとは別の角度から何らかの違和感を感じてはいる。
 そのひとつが、「みんな」とは誰か、という話だ。これは当時も感じていたことだが、あの頃よりはマシになった。ただ、この「みんな」に関して思うことは、「あなたの言う「みんな』とは、つまり『あなた』のことではないですか?」ということ。他人を自分にとって都合のいい理由に使っているのではないか、というネガティブな懐疑の念を、この言説を目にする度に抱かずにはいられない。
 もうひとつが、「みんな大変なんだよ」という言葉が意味するところである。この言葉は一般に「みんな大変だから、あなたも頑張りなさいね」という意味で用いられるように思う。だが僕はこの言葉を、「みんな大変だよなぁ、まあ大変だけど、お互い上手くやって行こうぜ」という意味で捉えたい。こちらは前者と比べて幾分ポジティブな違和感、と言えるだろう。「使いたい」ではなく「捉えたい」である理由は、恐らく僕は「みんな大変なんだよ」という言葉をほぼ使わないと思われるからだ。
 誰しも大変な思いをしていることなんて、今更言うまでもないことである。そんなこと言わなくたって、みんな頑張っていることはすでに分かっている。更に言えば、「みんな大変なんだよ」と言ったところで、僕が「みんな」の大変さをどれほど理解できているのかは甚だ疑問である。
 他人が僕の怒りを究極的には理解できなかったように、僕も他の誰かの気持ちを理解するのは、究極的には不可能のだ。なので、この言葉を僕はあまり使いたくない。容易に使えば他人を傷つけることになるからだ。それは僕の本意ではない。ただ、この言葉を言われることは今後もあると思うので、その時にはそのように捉えたい、と考えている。
 「みんな大変なんだよ」という言葉の裏には「自分を労って欲しい気持ちが隠れている、とも言えるかもしれない。それならそれで別によい。労ってほしいのなら労ってやる。ただ、労ってもらってるばかりではあなたは変わらない、ずっと大変なままだ、とだけ言っておく。現状から変わりたい・現状を変えたいのなら、まずはその内向きな視線を少しでも外に向けるべきだ。甘えるなとは言いたいのではない。自分自身も含めて、他人のことももう少し甘やかしてあげたらどうだ、という話だ。

おまけ
 僕はひとつのブログ記事に色々な話題を詰め込みすぎる癖がある。昔はもっと日記感覚でつらつら書いてたのになぁ。なので長くもなるし、話題も一貫性を欠いて「結局何が言いたいのか」がわかりづらくなりそうにも思える。まあそのうちなんとかなるでしょう。
 あと真面目な話ばっかりでつまらん。なので今後はもうちょっとしょうもないことも記事にしていきたい。ゲームとか。歌詞貼りなんかも復活するかも(昔は大丈夫だったけど、今は著作権とか大丈夫なんですかね…)。
 そんなことを考えてる最近です。おわり。