Urbanus2のブログ

個人的な趣味全開のブログであるため、読む人をかなり選ぶことでしょう。その辺をご理解いただいた上で拝読していただければ恐悦至極です。

お笑い

 「誰も傷つけないお笑い」というのが、少し前に話題になっていた気がする。それがどういったものか詳しくは知らない。しかしおおよその見当はつく。これまでの「お笑い」といえば、とんねるずダウンタウンに代表されるような、ある種の暴力性や理不尽さを含むものだった。「誰も傷つけないお笑い」とは、そうした暴力性や理不尽さを排除した無菌性のお笑いのことを言うのだろう。
 誰かが蹴り飛ばされる、叩かれる、落とし穴に落ちる、ケツバットを食らう。こうしたものは(もちろんお笑いとして成り立っている、という前提のもとでだが)公認された暴力だった。そして僕たちは、それらを面白いと思い、笑っていた。

 この「誰も傷つけないお笑い」という言葉から思い出すことがある。お笑いコンビである「ピース」の又吉が書き、映画にもなった「火花」という小説である。僕は映画しか観ていないが、多々印象的な場面がある映画だった記憶がある。そうした印象に残る場面のひとつが、「俺たちお笑い芸人は、笑わせてるのか、笑われてるのか」と、作中のとあるコンビの一方が他方に問いかけるシーンだ。
 「誰も傷つけないお笑い」は、何も現今になってようやく生まれてきたものでもないだろう。これまでにもいくつもあっただろう。しかし、漫才に代表されるように、お笑いにはボケとツッコミがある。一方が行うボケに対して、他方がツッコミを入れる。このツッコミは言ってしまえば(非常に軽い程度であっても)暴力である。仮にツッコミが暴力でなかったとしても、「ボケ担当のボケを笑う」という僕らが為す行為それ自体も暴力と言えるのではなかろうか。
 例えば日常の中で、誰かがお笑いにおける「ボケ」に相当することをしたと考えよう。それを僕たちはおそらく笑うだろう。「何やってるんだw」と。「そうじゃないだろ笑」というように。このとき、たしかに笑いは生まれている。しかし、「ボケ」てしまった人はそのとき何を思うのだろうか。「あれ、なんかおかしいことしたかな」程度かもしれない。しかし場合によっては「なんで、自分は今笑われているんだろう」と思い、悩むかもしれない。この「ボケ」の発生から「ツッコミ」までの出来事を極度に先鋭化させたものが、過度な「いじり」、あるいは「いじめ」と言われるものではないだろうか。
 「笑わせてるのか、笑われてるのか」の問いに対して、又吉は(映画を観る限りでは)明確な答えを出していない。思うに、又吉でなくても答えを出すのは容易ではなかろう。お笑い芸人たちは、そして僕たちは、果たして笑わせているのか、それとも笑われているのか。この基準は非常に曖昧であり、明瞭に答えが出せる兆しは——少なくとも僕の目には——いまだ見えない。この線引きについては、僕たち自身が意識的にならざるを得ないだろう。今目の前にあるこの光景・状況は、果たして「お笑い」の範囲内に収まるものなのだろうか、と常に問い続けることが、お笑いをお笑い足らしめるはずだ。

 …しかし、そもそもそんなにはっきりと区別できるものなのか、という応答もある。そのような態度は、お笑いにおける白と黒をはっきりさせようとしすぎではないのか。
 …別に笑われていようが構わない。ただ、目の前の人が笑って、笑顔になって、少しでも幸福な気持ちになってくれればそれでいい。ただその笑顔こそが、自分の原動力なのだから。——そのような、「お笑い」に対する愛情を、以前の吉本の騒動で垣間見た気がする。お笑い芸人として活動していく中で様々なしがらみが、様々な人に纏わりついていったのだろう。だがその根本にあるものは、とても簡素で分かりやすいものなのかもしれない。