Urbanus2のブログ

個人的な趣味全開のブログであるため、読む人をかなり選ぶことでしょう。その辺をご理解いただいた上で拝読していただければ恐悦至極です。

メモ——なぜぼくは〈ぼく〉であるのか

永井均の『〈子ども〉のための哲学』前半部を読んでいるところで思ったことのメモ。

1. 〈ぼく〉の不思議さ
「なぜぼくは〈ぼく〉であるのか」という問いは、一見実存主義的な問題提起に見える。しかし、それほど単純ではなさそうだ。
実存主義的に「なぜぼくはぼくであるのか」と問うと、それは「なぜ現に生きている自分は、他の在り方でもあり得たはずなのに、このようにして存在しているのか」を意味する(たぶん)。これは多くの人にとって馴染みのある問いであるし、僕としてもこういった問いを見たり読んだり聞いたり考えてみたりすることはあるので、肌感覚として理解できる。スッと入ってくる、と言ってもいい。

しかし永井のこの問いはここから更に一歩踏み出し(あるいは一歩退がり?)、現に今こうして存在している自分の背後に存在する〈ぼく〉の不可思議さを問うている(ように読めた)。これはなかなか理解するのが難しい。「認めがたい」とか「そんなこと言うなんてサイテー!」という意味ではない。腹にスッと落ちるようには理解できない、という意味だ。
これまでの(割と色んなところでよく見かける)「なぜわたしはわたしであるのか」といったような問いでは、現にこの世界に存在し、何かを見たり聞いたり感じたりする「わたし」と、「なぜわたしはわたしであるのか」と考える「わたし」は同一のものと想定しているものがほとんどであったと思う(違ってたらごめんなさい)。
しかし永井の「なぜぼくは〈ぼく〉であるのか」という問いでは、『世界に存在する「わたし」』と『考える「わたし」』は別のものとして捉えている(おそらく)。だからこそ自己意識や自我とも呼べるものを「ぼく」と書き、それとは違うぼくを〈ぼく〉と書く。

そうして考えると、永井がデカルト懐疑論による独我論にあまり魅力を感じていないのも頷ける。この独我論の問いとは「実際に存在しているのはこの考えている私だけなのでは?」である。しかし永井の問いにおいては、そうした問いはあまり効果を発揮しない。
実際に存在しているのが〈ぼく〉だけであろうとも構わないからだ。他のものがどうなっているのかはさておいて、ただ〈ぼく〉が存在することの不思議さにのみフォーカスを当てている。そこでは独我論がどうなのかというのはあまり問題にはならない(別にこれは「独我論なんて大したことない」ということを意味していない)。

ここまで〈ぼく〉についてメモったが、これが正しく理解できているかは自信がない。このように「ぼく」と〈ぼく〉の違いを意識してみたことなどこれまでなかったし、永井自身も「説明不可能なもの」と言っている。
僕も「なんとなーく分かった、といっていいのかな」という感じだし、それ(〈ぼく〉、もしくは〈おれ〉)がどういったものであるのかをきちんと説明しろと言われてもなかなか難しい。上では説明のようなものも書いたが、全然違っていることもありうる。


2. 〈ぼく〉という〈奇跡〉
なぜぼくは〈ぼく〉であるのか。それは永井に言わせれば〈奇跡〉であり、僕なりの表現で言えば〈たまたま〉である。おそらくそんなに外れた理解ではないと思う。理由しては、永井は〈奇跡〉とこれを言うが、この〈奇跡〉にある種のありがたさをさほど感じていないように見えるからだ。

ある人はこうした「なぜぼくは〈ぼく〉であるのか」という問いに触れて、自分が他でもない〈自分〉であることのありがたさのようなものを感じるようだ。だがこれでは永井のいう〈奇跡〉と、他の人がいう〈奇跡〉では意味が違ってきてしまう。
なぜそうなるのか。それは「なぜぼくは〈ぼく〉であるのか」という問いの理解の難しさと、「ぼくが〈ぼく〉であるのは〈奇跡〉だ」という言葉にある。

ひとつめの問題として、この問いは理解するのが難しく(永井自身あまりちゃんと理解されていないと自覚していたのは少しホッとした)、それゆえこの問いに基づく結論も理解するのが難しくなる。そうなるとなんとか理解しようとして、自分が手に届く範囲での「それっぽい」理解をするようになる。こうして問いと結論が誤解される。
ふたつめに、この「ぼくが〈ぼく〉であることは〈奇跡〉だ」という言葉が、そうした誤解と本来の意味とで違っているのに、字面としては非常によく似通っている、という問題がある。
誤解では「宇宙ができて、地球ができて、生命が誕生して、ヒトが文明を発展させて…そうした途方もない素晴らしい奇跡の上に私は今生きている。この奇跡を祝福と捉えて、私は自分の人生を大切に生きよう」というものがあるだろうか。ここでは「わたし」のかけがえのなさは、命の尊さや生命や世界の不思議などに繋がる。だからありがたく思う人もいる。天文学的な確率の上でこの世に生を受けた自分を大切にしよう、ということだ。

だが、僕が理解したところでいう本来の意味では、そういった意味はあまりない。全くないわけではないが、そうしたありがたさはあまり重要ではない。〈わたし〉が存在することは、よく言えば〈奇跡〉だが、〈たまたま〉であり、〈偶然〉である。イヤな言い方をすれば〈何かの間違い〉ですらある(これは意味を取り違えている、という意味で言い過ぎではある)。
よく「あなたがこの世に生まれる確率は何万分の一」みたいな話を耳にするが、そういう意味で〈わたし〉の存在は奇跡なのではない。確率で表現できるならば、〈わたし〉とは数多あるパターンの中のひとつに過ぎない。しかし、〈わたし〉はそうしたものではない。あらかじめ〈わたし〉が存在する余地があったわけではない。本当にたまたま、たとえば〈わたし〉が存在を始めるその日が家庭ゴミの日だった、というような、本当になんでもないような偶然によって〈わたし〉は存在するようになった。
ここにはありがたさもないし、確率で言えるようなものはない。そもそも(ひどい言い方をすれば)〈わたし〉が存在する予定などなかったのだから、〈わたし〉が存在する確率など求められない。しかし、なんらかの偶然によって〈わたし〉は存在する。このことは本当だったら(もし「本当」というものがあったとして)あり得ないようなことであるし、その意味で〈奇跡〉と言えるだろう。
この「本当だったらあり得ないこと(本当ってなんだよというツッコミは置いておく)」に価値を見出すなら、それは〈奇跡〉と呼べるだろうし、あまり価値を感じないなら〈たまたま〉という言い方になるだろう。









前の記事に照らして言えば、僕はこうした脱線をしてしまう。この脱線に対して読んだのは30pくらいだ。そして脱線したら、満足が行くところまで一度行かないと本の内容に戻って来られない。脱線した先のことが気になって本に集中できなくなる。そういうことが多い。もっとスラスラ読めたらいいのになぁ、と思う。

本当は気の合う友達なんかとこんな話ができたらいいんだろうと思う。誰かと話し合えれば、こうした独り言も少なくなるんじゃないかという気がする。でもそういう人はあまりいない。一応書いておくが、これは別に友達が悪いとかそういうことではない。興味のない話をされたってみんな困る。僕だってそうだ。