Urbanus2のブログ

個人的な趣味全開のブログであるため、読む人をかなり選ぶことでしょう。その辺をご理解いただいた上で拝読していただければ恐悦至極です。

メモ——なぜぼくは〈ぼく〉であるのか

永井均の『〈子ども〉のための哲学』前半部を読んでいるところで思ったことのメモ。

1. 〈ぼく〉の不思議さ
「なぜぼくは〈ぼく〉であるのか」という問いは、一見実存主義的な問題提起に見える。しかし、それほど単純ではなさそうだ。
実存主義的に「なぜぼくはぼくであるのか」と問うと、それは「なぜ現に生きている自分は、他の在り方でもあり得たはずなのに、このようにして存在しているのか」を意味する(たぶん)。これは多くの人にとって馴染みのある問いであるし、僕としてもこういった問いを見たり読んだり聞いたり考えてみたりすることはあるので、肌感覚として理解できる。スッと入ってくる、と言ってもいい。

しかし永井のこの問いはここから更に一歩踏み出し(あるいは一歩退がり?)、現に今こうして存在している自分の背後に存在する〈ぼく〉の不可思議さを問うている(ように読めた)。これはなかなか理解するのが難しい。「認めがたい」とか「そんなこと言うなんてサイテー!」という意味ではない。腹にスッと落ちるようには理解できない、という意味だ。
これまでの(割と色んなところでよく見かける)「なぜわたしはわたしであるのか」といったような問いでは、現にこの世界に存在し、何かを見たり聞いたり感じたりする「わたし」と、「なぜわたしはわたしであるのか」と考える「わたし」は同一のものと想定しているものがほとんどであったと思う(違ってたらごめんなさい)。
しかし永井の「なぜぼくは〈ぼく〉であるのか」という問いでは、『世界に存在する「わたし」』と『考える「わたし」』は別のものとして捉えている(おそらく)。だからこそ自己意識や自我とも呼べるものを「ぼく」と書き、それとは違うぼくを〈ぼく〉と書く。

そうして考えると、永井がデカルト懐疑論による独我論にあまり魅力を感じていないのも頷ける。この独我論の問いとは「実際に存在しているのはこの考えている私だけなのでは?」である。しかし永井の問いにおいては、そうした問いはあまり効果を発揮しない。
実際に存在しているのが〈ぼく〉だけであろうとも構わないからだ。他のものがどうなっているのかはさておいて、ただ〈ぼく〉が存在することの不思議さにのみフォーカスを当てている。そこでは独我論がどうなのかというのはあまり問題にはならない(別にこれは「独我論なんて大したことない」ということを意味していない)。

ここまで〈ぼく〉についてメモったが、これが正しく理解できているかは自信がない。このように「ぼく」と〈ぼく〉の違いを意識してみたことなどこれまでなかったし、永井自身も「説明不可能なもの」と言っている。
僕も「なんとなーく分かった、といっていいのかな」という感じだし、それ(〈ぼく〉、もしくは〈おれ〉)がどういったものであるのかをきちんと説明しろと言われてもなかなか難しい。上では説明のようなものも書いたが、全然違っていることもありうる。


2. 〈ぼく〉という〈奇跡〉
なぜぼくは〈ぼく〉であるのか。それは永井に言わせれば〈奇跡〉であり、僕なりの表現で言えば〈たまたま〉である。おそらくそんなに外れた理解ではないと思う。理由しては、永井は〈奇跡〉とこれを言うが、この〈奇跡〉にある種のありがたさをさほど感じていないように見えるからだ。

ある人はこうした「なぜぼくは〈ぼく〉であるのか」という問いに触れて、自分が他でもない〈自分〉であることのありがたさのようなものを感じるようだ。だがこれでは永井のいう〈奇跡〉と、他の人がいう〈奇跡〉では意味が違ってきてしまう。
なぜそうなるのか。それは「なぜぼくは〈ぼく〉であるのか」という問いの理解の難しさと、「ぼくが〈ぼく〉であるのは〈奇跡〉だ」という言葉にある。

ひとつめの問題として、この問いは理解するのが難しく(永井自身あまりちゃんと理解されていないと自覚していたのは少しホッとした)、それゆえこの問いに基づく結論も理解するのが難しくなる。そうなるとなんとか理解しようとして、自分が手に届く範囲での「それっぽい」理解をするようになる。こうして問いと結論が誤解される。
ふたつめに、この「ぼくが〈ぼく〉であることは〈奇跡〉だ」という言葉が、そうした誤解と本来の意味とで違っているのに、字面としては非常によく似通っている、という問題がある。
誤解では「宇宙ができて、地球ができて、生命が誕生して、ヒトが文明を発展させて…そうした途方もない素晴らしい奇跡の上に私は今生きている。この奇跡を祝福と捉えて、私は自分の人生を大切に生きよう」というものがあるだろうか。ここでは「わたし」のかけがえのなさは、命の尊さや生命や世界の不思議などに繋がる。だからありがたく思う人もいる。天文学的な確率の上でこの世に生を受けた自分を大切にしよう、ということだ。

だが、僕が理解したところでいう本来の意味では、そういった意味はあまりない。全くないわけではないが、そうしたありがたさはあまり重要ではない。〈わたし〉が存在することは、よく言えば〈奇跡〉だが、〈たまたま〉であり、〈偶然〉である。イヤな言い方をすれば〈何かの間違い〉ですらある(これは意味を取り違えている、という意味で言い過ぎではある)。
よく「あなたがこの世に生まれる確率は何万分の一」みたいな話を耳にするが、そういう意味で〈わたし〉の存在は奇跡なのではない。確率で表現できるならば、〈わたし〉とは数多あるパターンの中のひとつに過ぎない。しかし、〈わたし〉はそうしたものではない。あらかじめ〈わたし〉が存在する余地があったわけではない。本当にたまたま、たとえば〈わたし〉が存在を始めるその日が家庭ゴミの日だった、というような、本当になんでもないような偶然によって〈わたし〉は存在するようになった。
ここにはありがたさもないし、確率で言えるようなものはない。そもそも(ひどい言い方をすれば)〈わたし〉が存在する予定などなかったのだから、〈わたし〉が存在する確率など求められない。しかし、なんらかの偶然によって〈わたし〉は存在する。このことは本当だったら(もし「本当」というものがあったとして)あり得ないようなことであるし、その意味で〈奇跡〉と言えるだろう。
この「本当だったらあり得ないこと(本当ってなんだよというツッコミは置いておく)」に価値を見出すなら、それは〈奇跡〉と呼べるだろうし、あまり価値を感じないなら〈たまたま〉という言い方になるだろう。









前の記事に照らして言えば、僕はこうした脱線をしてしまう。この脱線に対して読んだのは30pくらいだ。そして脱線したら、満足が行くところまで一度行かないと本の内容に戻って来られない。脱線した先のことが気になって本に集中できなくなる。そういうことが多い。もっとスラスラ読めたらいいのになぁ、と思う。

本当は気の合う友達なんかとこんな話ができたらいいんだろうと思う。誰かと話し合えれば、こうした独り言も少なくなるんじゃないかという気がする。でもそういう人はあまりいない。一応書いておくが、これは別に友達が悪いとかそういうことではない。興味のない話をされたってみんな困る。僕だってそうだ。

久しぶりに読書をして思ったこと

ここしばらく本を読んでいなかったが、最近は本を読むようになった。読んだものは

言ってはいけない橘玲)』
スマホ脳(アンディシュ・ハンセン)』
『〈子ども〉のための哲学(永井均)』(これは読んでいる最中)

である。本を久しぶりに読んで思ったのは、自分は独り言が多いな、ということだった。


本を読んでいると

「それってこういうことで合ってるかな?」
「それはあっちでいう◯◯だな」
「それはこういうことじゃないかな」
「それでもこういう場合はどうなんだろう」

などのような、確認なのか独り言(自分的には文章に話しかけている感じだが、当然本は喋り返さないので独り言となる)なのか、よく分からないことをよくしてしまう。これによって本を読むのに割と時間がかかる。


その中でも、特に自分の興味が他より強い事柄に関する本ではさらに独り言が増し、

「でもこれってあれにはこんなことが書いてあったな。それだとどうなるんだろう」
「なるほど、そうなるんだな。でもそうするとこういう問題が出てくるんじゃないか」

といったふうに、文章の内容からだんだん離れていって勝手な方向に進み、自分でもよく分からなくなってくる。そして疲れる。疲れた割には進んでいないのでへこむ。
前はこうして出てきたことを覚えておこうとしたり、それが無理だったのでメモ書きしてみたりした。でも結局本を読むのが更に遅くなるし、余計に疲れるだけであまりためになった気がしないのでやめた。
今でも読んでて脱線することはあるが、脱線したらテキトーなところで戻るようにしている。考えたことはその場だけにしておいて、放置している。このやり方だとあまり疲れずに済む。


ここまで書いて全体を見直して思ったことがあった。最初のほうで「自分は読書中の独り言が多い」と書いたが、他の人はどうなんだろう。やっぱり同じようなやり方で読んでいるんだろうか。「問い返しながら読む」という方法はどこかでも目にした気がするし、割とみんなやっていることかもしれない。
別にそこまで気になるわけではない。昔何かの機会で感じた、自分の文章を読むスピードが他の人よりまあまあ遅かいことに対する理由づけがしたいだけなのかもしれない(これは独り言に関係なく、素で遅い部分もある)。
もしかしたら他の人はもっと良いやり方があるのかもしれない。しかし、それが自分に合うかはわからないし、やってみようという気もあまりない。そこまで肩肘張って本を読みたいとも思わない。



ついでに、最初に挙げた3冊の軽い感想も書く。

言ってはいけない
まあまあセンセーショナルなことは書いてあるが、6年前の本なのでそこまで驚くようなことはあまりないかも。本全体からは、今では割とよく見かける「なかなか受け入れがたいことだけど、本当のことだからしょうがないよね」な雰囲気を感じる。だが、根拠の出し方がイマイチで(新潮新書なので仕方がないのかもしれない)、調査・研究結果ではなく著者の推測で話を進めている部分もままある。「面白いこと書いてますね」程度で読むのがいい。

スマホ脳』
こっちは精神科医が様々な研究や調査をもとに書いているので、やや信頼度はありそう。でも著者が「インフルエンサー」って紹介されるとなんか微妙に感じてしまうのは、僕の器が小さいせいか。「そもそも新書に何を期待しているんだ」というのは確かにそう。「スマホ使いすぎるのは良くない気がする」という漠然としたイメージから「スマホ使いすぎるのはやっぱり良くない」くらいにはなった。そして運動はやはり大事。

『〈子ども〉のための哲学』
これはまだ20pぐらいしか読んでいないが、やっぱり永井均には人を魅了するものがあるなと思う。それはツイッターを見ても分かる。この人の独在論をどれだけの人が理解しているのかは分からないが(俺は理解できていない)、それでも人を引き込む力があるから、(支持者という意味での)フォロワーが結構いるんだろう。

555観終わった

19話ぐらいまで観て放置していた仮面ライダー555をやっと観終わった。変身のシステムやキャラクターなんかは結構好きで期待に胸を膨らませながら観ていたんですが、ちょっと最後にモヤッとしてしまったな〜という感じ。
たしかに諸々の事情を考えるとこの終わり方がベターなのかな〜と思いつつ、「ここで終わりか…」とも思ったり。長田ちゃんや草加が退場してその直後は登場人物が悲しんでいても、同じ話の後半では楽しそうにバーベキューしてるのを見ると若干違和感を感じることもある。
とはいえファイズやカイザのデザインや、ケータイで変身・ベルトはケースに入れて持ち歩くというアイディアなんかはやはり斬新でお気に入り。アクセルフォームから繰り出す連続クリムゾンスマッシュのカッコ良さは異常。

今はカブトを観つつ、「風都探偵」アニメ化記念で配信されてるWも見てる。Wは試聴済みだれど、色々とちょうどいい印象があって観やすいのでまた観ている。
カブトにも面白さとかっこよさなど、色々期待しながら観ていきたい。いろんなフォームが出てくるのもいいけどシンプルなのもいいよね。というところで終わり。

院試受かったよ

 友人から「そういやお前院試受かったんか?」と訊かれたので、まあ一応書いておこうかなと。ブログにしろTwitterにしろ院試合格を報告したところで「おめでとう」と言う人はいれど喜ぶ人はさほどいないので別にいいかと思っていたのですが、気になっている人は気になっているんだろうなと思い報告しておくことにしました。
 
 院試が9月中旬にありました。思っていたより外国語科目である英語が思っていた4割くらいできず悶々とした2週間を経たのち、合格通知を教官から直接いただくという栄誉に浴した次第であります(教授会で合格が決まった直後に知らせていただいたそうです。僕ごときにそんな…ありがとうございますですね)。
 外国語科目は足切りがあるため「一定程度できていれば合格!」なのではありましょうが、果たして何が求められているのか未だ掴めなかったのが少し気になっております。大問1はThe Guardianのインタビューからの引用、大問2はかなり専門的な言語学とデザイン論の評論、といったところで、前者は日常的な英文を読んだ経験があればとてつもなく簡単な部類でしょう。後者は構文やイディオムは高校レベルを越えていない(というより、英文を読む上で必要な文法等の知識は高校で完結しているのでしょう)ため、やたら複雑な構造を抜きにすればおそらくこちらも容易な方に入りましょう。
 しかし大問1のあまりに「そのまま」な問題に面を食らい、「え?これ本当にこのまま訳していいの?なんなら文章全体読まなくていいし下線部だけ目を通してそのまま訳せばいいんだけど、本当にこれでいいの?」と戸惑いましたね。本学の学部入学試験の英語然り院試の過去問然り、下線部の和訳問題にしてもその他の問題にしても、なんらかの指示語や普段見かけないであろう単語をその問題に含んでおり、そういった語の意味を文脈から推測させて答えさせる傾向があるため、今回の「下線部だけ読んで訳せばOK!」な雰囲気には驚きました。問題作成者連れてこい。
 そんな要らぬ邪推に時間を押され大問2に入りやたらと出てくる専門用語に惑わされぬよう読み進めるも、焦りからクソとしか言いようのない回答を連発。正直死を覚悟しました。「3万円返してくれよぉぉぉぉぉ」と「院試なんてクソ面倒なもんはもう今回でスッキリ片付ける」の2つの気持ちに揺れ動きながら解いてました。あの時の僕をDIOが見たら「まさに時間ギリギリまで必死こいてる受験生じゃあないかwwwwwwwww」を草を生やしまくっていたことでしょう。生命を生み出すのはジョルノだけにして桶。

 続いて面接試験がありました。と言っても僕は正直この時点で「もう終わったな」と8割方諦めていました。英語で乙ったのもありますが、前日は生活リズムの崩壊によりほぼ眠れておらず、プラス12時間近く活動したのちのその日の試験だったのです。もう僕の脳みそは考えるのをやめていました。
 面接もほぼほぼロクに答えられませんでしたね。英語に関しては「俺ができないのなら他の受験者も大してできていない」という可能性が割とありますが、この面接試験に関しては肯定的に捉えるのが難しいですね。話している自分ですら何を言っているのか何も分かりませんでした。まあ面接といってもなんか就活みたいに変な話するわけではなく、院試の問題や事前に出した小論文に関して疑問点や質問、批判などを通してお話しするような感じなので、体感激ヤバという出来ではないにしてもほとんど会話が成立していなかった気がします。むしろそっちの方が大問題なのでは?

 そんなわけで割と大きめの絶望感に包まれ、かつ活動限界をはるかに超えていたためもはや食欲も睡眠欲も何もないまま帰路につきました。あのときは疲労感がすごすぎて本当にその後何もできませんでした。ただただドトールに居座って煙草を吸い続けていました。なんというか、それがあの時の僕にできる唯一の行為だったのです。

 まあそんなこんなありましたがなんとか受かったので、来年からはまた学生です。やったね!フリーターじゃなくなるよ!勤労学生控除も受けられるよ!奨学金もおそらくゲットできるよ!ゆえにクソバイトに身をやつすことも今よりは少なくなる…と思うよ!書いててなんだか悲しくなってきたよ!誰か僕に焼肉奢ってよ!ぶっちゃけ僕は肉の旨さとかよく分からないので食べ放題の方が大大大好きだよ!

 …というのが近況報告であります。アクセス数を見たところ10数件ほどあり、何名かはこちらのブログに目を通していただいているようですのでこれからもちょこちょこ書いていこうかと思います。どうぞよしなに…。

ブログ新しくしました

 タイトルの通りです。理由としてはIDが気に入らなかったからです。別にミスチルが嫌いなわけではなく(だったら元からそんなIDにしていない)、自分の趣味やら生年やらが全開になっているIDを使うのに今更ながら抵抗を覚えたからです。やろうと思ったらすぐやろうとする僕の悪癖が出た好例と言えるでしょう。少しは考えてから動け…。

 それに伴って一部記事の取捨選択をしました。前のブログでは一時の気持ちから書き殴ったような記事も複数あり、そういった記事は別にこちらに移植しなくとも問題ないとの判断です。
 また各記事はスマホからコピペしたもので、かつ内容等は特に確認していないため、見返すと変な箇所もあるかもしれません。ただ僕としてはそういった箇所はどうでもよくなってしまっており、修正するのも面倒であるため仮にあったとしても放置させていただきます。そもそもこのブログをそんなに読んでる人がいるのかという話ではあるのだが…。

 そんなところでしょうか。ひとまずはそんなところでしょうか。院試も終わったことですし近況報告も兼ねてひとつ書いておきたいところですね。それではまた。

卵かけご飯に関する試論——何がヤツをより美味くするのか?

・導入
 卵かけご飯は人類史上稀に見る発明と言える。ほかほかのご飯の上に卵をかけ、ご飯と混ぜる。味付けは醤油だけでも良い。これだけ手軽に作れながら、さっさと食べることもできる。『善の研究』で知られる西田は彼の主要概念「純粋経験」の例示として「美しく妙なる音楽を聴いているとき」を挙げていた。しかし彼がここで卵かけご飯を例に挙げなかったのは、きっとその存在を知らなかったからに相違ない。卵とご飯、卵かけご飯とそれを食す私、いずれも我(主観)と物体(客観)が分かたれる以前の、我々の意識に直接与えられる経験や事象である。彼には是非とも卵かけご飯を食していただきたかった。

 そんな話はどうでもいいのだ。そしてここからの話もどうでもいいのだ。どうでもいいが書くのだ。ここからの話とは何かといえば、卵かけご飯をより美味くする調味料とは何か、という話である。たしかに卵かけご飯はそのまま食べても美味しい。醤油というシンプルな味付けだけでもご飯がご飯がススムくんである。だが、そのような卵かけご飯をより美味く食べられるようにする方法があるとすれば、それは鬼に金棒、ヒカキンに最新最高の機材、吉田沙保里に対物ライフルである。そしてそうした方法はあり得るように思われる。
 私はよく卵かけご飯を食べる。理由は「作るのにも食べるのにもお金も時間もさほどかからないから」である。社会は私に厳しいが、卵かけご飯は優しい。そんなわけで卵かけご飯にはよくお世話になる。しかしそんな私でも人間である以上欲求がある。「もっと美味しく卵かけご飯を食べられる方法はないのか…」。卵かけご飯がそのままでも美味しいのは、繰り返し述べた通りだ。しかしより美味く食べられる余地が少しでもあるならば、試さない手はない。「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」という言葉もある。平成仮面ライダー屈指の人気作『仮面ライダーOOO/オーズ』でも欲望の重要性を説いている。明日という日を迎えるのも、欲望あってこそである。
 というわけで、以下では卵かけご飯をより美味く食べられる調味料と、その感想を書いていく。紹介する調味料は6つである。言うまでもないが、感想は個人の意見である。しかし、中には友人に勧められて試したものもあるため、私個人の舌が狂っているわけではなかろう。興味があれば、是非試していただきたい。また、ここでは元となる卵かけご飯を「ご飯・卵・醤油を組み合わせたもの」とする。前置きが長くなってしまったが、それでは紹介へと入ろう。


・調味料と感想
①塩
 まずは塩である。おそらくどの家庭にもあるだろう。ないのは一人暮らしをしている平均的な男子大学生の部屋ぐらいだろうが、塩は結構重要である。いざというとき、塩を舐めて水を飲んでいればしばらくは生きていられる。そういった意味でも、小さい塩を一瓶置いておくだけでも変わる。なんなら塩を自らに振りかけて、身を清めた気分になることもできる。しかしそんなことより彼がするべきなのは、さっさと風呂に入ることだろう。
 さて感想だが、まあ悪くはないがなくてもいい、という程度である。元々醤油によってしょっぱい味があるところに塩を入れるのは、得策とはいえない。下手をすれば不味くなってしまう恐れすらある。醤油とのバランスも考えれば良いのかもしれないが、あまりオススメはしない。

②塩と胡椒
 続いては塩と胡椒である。基本的に料理の味付けに際して、塩と胡椒さえあればなんでも美味くなる。野菜炒めにしろ肉にしろスープにしろ、塩分と胡椒の風味・刺激の組み合わせは料理を引き立たせてくれる。そんな塩と胡椒が卵かけご飯に合わないはずがない。
 …そう思って試したのだが、別に大して美味しくはならなかった。はじめは分量が少なかったのかと思い量を足してみたが変わらなかった。醤油と塩・胡椒がケンカしているわけではないのだが、別居しているとでもいえばいいのか。とにかく彼らは交わらず、それぞれがそれぞれの主張をするのみである。他に紹介する調味料の方がよほど試す価値があると言えよう。
 余談だが、私の部屋には大学一年の頃から置いてある塩胡椒のボトルがあるのだが、最近その塩と胡椒が、公園の砂場にある砂にしか見えなくなってきた。このまま使っていても大丈夫なのだろうか。もしかしたら俺が塩と胡椒だと思っていたのは、そこらへんの砂に過ぎないのではなかろうか。疑問は尽きない。

③ブラックペッパー
 今度は黒胡椒である。上では塩とともに胡椒についても言及したが、やはりただの胡椒と黒胡椒では味も風味も異なる。味付けに関してより刺激を求めるならば、断然黒胡椒を選ぶべきだろう。
 しかしその感想は、残念ながら上記のものと同様さして美味しいと言えるほどではない。やはり混じり合わないのだ。黒胡椒は美味しい。卵も美味しいし、醤油も別に悪くはない。しかしこれらは決して融和しない。食べていても「卵かけご飯の味と、ブラックペッパーの味がする」というだけである。それならその黒胡椒はカルボナーラにでもぶちまけるのが良策であろう。

④砂糖
 ここに来て読者は「こいつ気が狂ったか」と思われるかもしれない。その気持ちは分からなくもないが、私は至って正気である。たしかに「しょっぱいものと甘いもの足して何が美味くなんだよボケが」と言いたくなる気持ちもわかる。私もはじめはそうだった。これは友人から勧められて試したのだが、私も聞いた当初は「こいつ完全に頭か舌がイッてやがる」と思った。
 だがその味は、決して悪いものではないのだ。それどころか、むしろ美味いのである。半信半疑で試したこの組み合わせが、意外なことにもマッチするのだ。おそらく砂糖が醤油の味を緩和させながらも、ほのかな甘みを演出してくれるおかげだろう。これは上で述べてきたものたちと違い、別居することもなければケンカもしない。卵かけご飯を砂糖が引き立たせてくれる。少しでも興味があれば是非とも試していただきたい。
 しかしひとつ注意点があるのだが、それは砂糖の量に気をつけることである。いわゆるご飯茶碗一杯に対して、入れる砂糖の量は大体1gがベストといったところだろう。それ以上だと甘さが勝ち、極めて食べ物に対する侮辱を感じざるを得なくなるし、少ないと少し物足りなくなる。欲望は重要な要素だが、過ぎたるは及ばざるが如しである。

⑤七味唐辛子
 残りも少なくなってが、ここで辛みの登場である。私は辛い食べ物が割と好きな方ではあるため、七味唐辛子も部屋にある。何かにつけて「物足りない」と思えばとりあえずかける。それだけで大抵の食べ物は美味くなる。それが辛さの魅力と言えよう。
 しかし卵かけご飯との相性は良いとは言えない。悪いというほどでもないのだが、ほかの食べ物と比べると七味をかけたところであまり美味しくならなくなってしまう。無いよりはマシだが、あったからといって特別美味しくなるわけでもない。特に言うべきことがないという点では、ここで挙げる調味料の中で最も悲しい存在かもしれない。もう少し寒くなってくれば「かけそば」という最強の相棒が出てくるので、やつが輝くのはやはりそこなのだろう。

食べるラー油
 いよいよ紹介するものも最後となった。食べるラー油(以下、食べラー)はそのままご飯にかけてもよいし、他にもさまざまな料理に使っても美味しい。ラー油の辛さと香味、フライドガーリックのザクザクとした食感が食欲をそそる。一時期「食べラーが美味しい!」とメディアで紹介されて以来、調味料界において一定の地位を築いている。少し脱線するが、個人的にはご飯に食べラーをかけて食べるのはあまり好きではない。やっぱり口の中がベタつくのよね。
 そしてその気になる感想だが、これは最高の組み合わせである。もはや他に何が必要なのかと問いたくなるほどに奴らはベストマッチである。食べラーの辛味を卵がマイルドにするだけでなく、卵かけご飯に足りなかった食感をプラスしてくれる。互いの足りない部分を補い合える、それが卵かけご飯と食べラーなのである。おまけに個人的に好きではなかったラー油による口内のベタつきも、卵かけご飯となら気にならない。まさにこいつらこそが「ベストマッチなやつら」と言えるだろう。
 ちなみにだが、ただのラー油を卵かけご飯にかけてもさほど美味しいとは思えなかった。理由は七味と同様なのだろうか、やはり単なる辛味では足りないのである。食べラーとだからこそ、卵かけご飯はより輝けるのである。


・総括
 ここまで長々と書いてきたが、なんだかんだで卵かけご飯には醤油をかけてすぐ食べるのが良かろう。だってそもそもの理由として「手っ取り早く食べたい」から卵かけご飯を食べるのであって、別に卵かけご飯研究家になりたいわけではない。一般の人間には醤油さえあればよい。
 だがもし金がなさ過ぎて毎食卵かけご飯ばかり食べていて気が狂いかけているならば、試してみる価値は多いにある。変化あってこその生である。そうした試行の結果が思い通りのものとは違っていたとしても、何もせずに済ましてしまうよりは有意義なのではなかろうか。私はそう考える。

ルーティンワーク

 俺はルーティンワークがあまり好きではない。同じことをただひたすら繰り返すことになんの面白さがあるのか。分かりきった手順、分かりきった結果、そこに創造はなく、発見もない。とはいえ同じ作業を繰り返さざるを得ないことも多々あるので、黙ってやるのだが(バイトとか)。
 ここ最近の生活習慣もつまらなくなってきた。午前中〜昼過ぎまでは小論の作業、それから夕方までは読書、夕方から夜はバイト、といった感じである。新鮮さがなく、エキサイティングでない。もっと刺激のある生活は何処かに転がっていないかと探している今日この頃である。

 ただルーティンワークについて考える際、俺としては弓の話題は避けがたい。弓こそルーティンワークの塊だろう。同じ動作を、同じ手順で延々と繰り返す。流派によって違いはあるものの、大枠でその動作や手順は共通していよう。もし八節を無視したり独自の型を生み出したりしたら、先輩なり師範なり部活の顧問なり指導者なりから、的枠で頭をカチ割られることだろう。

 ただ、そうしたただただ同じことを繰り返す弓を、俺はつまらないとは思わなかった。思うように結果が出なかったり、その他の要因で道場に足が向かなかったりすることはあったが、弓が嫌だったことはない(俺が退部しなかった一番の理由はここだと思う)。他の繰り返しが嫌で、弓の繰り返しが嫌じゃない理由は何かと考える。
 「弓は好きだが、他のことは好きじゃないから」。それもあるだろう。だが、俺がやっていることは全て大なり小なり俺が好きでやっていることなので、これは適当な理由とは言い難い気がする(本当に嫌だったら、俺はとっくにやめている)。
 しかし、弓と他のことで何が俺の態度を変えさせていたんだろうと考えていくと、そもそも本当に違う態度だったのかという疑問も出てくる。思えば、冬の長期休暇中には本当に同じことばかり繰り返していたため、冬オフも中盤に入ってくると、はっきり言って飽きていた。「いつまでこんなことやんねん」「ただただ矢数かけてるだけちゃうか」と思いながらピョコピョコ引いていた。

 だがそういった時には、「つまんないな〜」と思いながらやっていても何も面白くないので、自分で何かしらの変化をつけて練習していた。例えば、カケを変えたり、手の内を少しずつ変えてみたり、胴造りの意識を少し変えてみたり、などなど。そうすることで何かしらの面白さを見つけようとしていた。
 あるいは、弓は一見同じ作業の繰り返しに見えて、実はそうではないということもある。同じ手順、同じ動作をしていても、同じ射をすることは恐らくない。弓において再現性の確立は最も重視されていると言っても過言でないが、どれほど中る人間であっても完全に同じく引いている人間はいないのではないか。極端に言えば、再現率が99%の人間はいても、100%の人間はいない、ということだ。

 それを考えると、自分がこれまでただの単純作業とみなしていたものも、実はそうではないのではないか、と思えてくる。遠くから眺めれば同じことの繰り返しでも、細部を見れば違うということが、俺が思っている以上に多いのではないか。「小論作業」「読書」と一言で言っても、毎度同じ作業をしているわけではない(流石にそこまでアホじゃないと信じたい)。もちろん、同じ箇所を訂正したり、読み返したりすることはある。しかしその繰り返しの中でも、いつも何かは違っている。決して大きくなくとも、何かしらの変化や刺激がそこにはきっとある。
 (ちなみにここで作業の中に「バイト」を挙げないのは、俺がバイトに対しては別に熱量をもっていないからである。もちろんバイトと言えど仕事である以上、きちんとやる。だがそれは労使関係を結んでいるからに過ぎず、責務を果たす代わりに、労働者としての権利を請求するためである。そこには何の情も熱もない。)

 そんなわけで今日も小論を書く。余裕をもって取りかかったためか、思っていたよりも進捗は良い。論文の基本骨子である「問い→主張→論拠」を提示する作業は終わった。あとは主張間の論理がしっかりしているか、論文全体がひとつの論理として完結できているか、無駄な部分はないか、誤字脱字はないかといったチェックや、参考・引用文献表の作成といったところである。個人的にここからの作業が一番面倒臭いため非常にダルいが、俺がやりたいことのためにはやらなければならないことなので、やるしかない。ぴえん🥺。
 それに、今書いている小論文は、あくまで俺にとってだがかなり満足度の高いものになっている。別に革新的な主張があるわけではないが、俺がこれまでやってきたことの現時点での集大成になっている。これを卒論として出しておけば教官もあんな渋い表情をしなかっただろうに…。この小論文をさらに拡張させていって(誰に見せるでもないが)きちんとした論文として完成させたいくらいである。えっへん😎。
 とは言いつつも、専門の人から見れば「なんだ、まだそんなことやってんのか」というレベルだろう。それは確かにその通りである。その理由は俺がやっている分野の特徴にある。この分野(「徳倫理学(virtue ethics)やメタ倫理学(meta-ethics)と一応言っておく)は哲学・倫理学でも、比較的最近になって注目されてきた分野であるため、やっている人があまりいない。
 メタ倫理学英米圏では一時期かなり注目されたため蓄積がそれなりにあるが、日本ではなぜかほとんど話題に上がらない(言及される機会が少なかっただけで、全くないわけではない。しかし、少ないものは少ない)。そんなわけで、書籍も論文も悲しくなるほど少なく、「そんなこと」をしておくのが現状関の山なのでである。もちろん、俺の圧倒的勉強量不足により、より先端の研究に触れられていないという事実もあるのだが…ぴえん。

 単純作業が嫌だという話からだいぶ内容が変わってきたが、僕の話というのはいつもそんな感じなので許してほしい。さて、というわけで今日も作業をこなしましょう。