Urbanus2のブログ

個人的な趣味全開のブログであるため、読む人をかなり選ぶことでしょう。その辺をご理解いただいた上で拝読していただければ恐悦至極です。

「なんで3年間も勉強放置してたんじゃコラ」に対する言い訳

 僕は以前のブログ(院試に落ちた話のやつ)で「勉強を3年間も放置してた」と書いた。これは具体的に言うと、自分の専修が決まった学部2年から院への進学を決めた学部5年まで、ほとんど勉強をしてこなかったということである。
 なぜ勉強しなかったのか。その理由を一言で言うならば、「勉強不足ゆえに勉強する理由が分からなかったから」ということになる。こう書くと「つまりどういうことだってばよ」となるが、以下でこのことを書いていく。

 はじめにも書いたが、僕は2年次からほとんど勉強をしてこなかった。別に勉強が嫌だったわけではない。むしろ好きだったし、今でも好きである。勉強に限らず、知らなかったことを知ったり、出来なかったことができるようになるのが、僕は好きである。それは部活やバイトでも当てはまる。中でも勉強は知らないことがよく見つかるし、同時に知ることも多い。その中で自分の中に起こる驚きや達成感が僕は好きなのだ。
 (僕はたまにストイックだと言われることがある。それは僕のこうした、何かに取り組む際の態度によるものだと思う。ラクにやれるのなら、もちろんラクをしたい。しかしそれでは僕は変われないのだから、意識するしないに関わらずストイックになってしまうのは、ある意味仕方のないことではある。)

 僕は勉強が嫌いではない。講義概要は毎年見ていたし、自分の専門はもちろん、気になる授業があれば他分野でも講義内容の詳細はチェックし、出席していた。
 しかし、当時(そして今でも)興味を惹かれる授業はほとんどなかった。僕がやりたいことと各講義の目標・目的が違いすぎたからだ。毎年毎セメスター探してみても、僕の興味関心と関わりの深い講義がほとんどない。大学の講義は高校までの授業とは違って、それぞれの先生方の専門や興味関心と関わりの深い内容になりがちである。そのためこうした学生と先生たちの関心のすれ違いは、仕方のないことだと思っている。
 今だからこそある程度言葉にできるが、僕の中の疑問は、これまでの道徳哲学が前提にしていた「価値の一元性」にある。そしてこうした疑問に関わりの深い研究は歴史が深いようで浅く、蓄積もあまりない。ソクラテスに端を発する「多様な善さの承認」は、古代ギリシャでは隆盛を誇っていた。しかし中世・近代・近現代と時代を経るにつれ、そうした考え方は廃れ、時代遅れのものと見做されるようになった。そうした思想の潮流を経た上で、1970年代頃から「これまでの道徳哲学が蔑ろにしてきたものは、実は結構大事なものだったんじゃないか?」と再び取り上げられるようになった。他の倫理学理論には3,400年ほどの歴史があり、また活発に議論されることで体系化されてきた経緯を考えると、この数100年の差は大きい。
 そのため講義で取り上げられる機会もほとんどなかった。記憶にある中では、研究室が決まってからの5年間で1回、僕が気づいていなかっただけだとしても、片手で数えられる回数だろう。研究にしろ勉強にしろ(極言すれば何事であっても)、自主的に取り組むことが重要なのは分かる。しかし、言い訳になるが、自分で勉強しようにもそのための最初の取っ掛かりが、当時の僕にはなかったのである。
 ついでなので、僕が留年した理由にもここで触れておく。単位が足りなかった、というのは確かにある。しかしそれ以上にこの「やりたい事のなさ、不明確さ」が主な原因だった。事実、僕はなんだかんだあって2〜4年生で大学に通う事自体少なくなってはいたが、単位だけは取っていた。なので4年次に卒論提出までこぎつければ卒業できていた。2留したがこの間で取得した単位は卒業論文の単位のみである。
 …なんか偉そうに書いているが、全く偉くもなんともないなこれ。結局必要単位数ジャストしか取ってないし(興味のない講義の単位取っても何も面白くなかったという理由もあるが)、留年したのには変わりないし。自分で書いてて悲しくなってきた…。

 脱線したので元に戻す。この「価値の一元性」への疑問は、僕の人生の様々な場面や、高校の倫理や現代文といった授業の中で徐々に形成されたものである。そのため講義に関しては大学に入るまでの知識でなんとかなってしまった部分も多く、単位を取るだけなら勉強せずともどうとでもなった(レポートの質などはクソだったので、そこらへんは先生方のご厚意によるものだが)。単位が足りなかったのは文武を両道できなかった己の未熟さと諸事情ゆえです。お察しください。
 そうして過ごす内に「自分がやりたいことは、少なくとも大学でやれることじゃないのかもなぁ。だったらテキトーにお金稼いで、気になる本でも読んで勉強していけばいいかなぁ」と考えるようになった。僕が一時期就活をしていた理由はこれである。
 しかし以前も書いた通り、僕は就活をやめて研究の道に進むことに決めた。「金なら、死なない程度にあればいい。それより勉強の方にもっと時間を割きたい」と思ったからだ。しかし、進路を決めたはいいが何をすればよいのかは分からない。そこでとりあえず教官に進学や研究について諸々の相談してみることにした。
 その中で「それならこういう方面はどう?」「この本とかオススメかな」とアドバイスを頂いた。そしてそれらの本を読んでみた結果、まさに目から鱗が落ちた気がした。「こんな分野があったのか。こういうの考えててもやっぱりいいんだ」と思えた。まともなのは自分以外の人間で、自分はどこかで頭がおかしくなり、「変な」ことを考えてしまうようになったんだと思っていた。だが、「変な」人はこれまでも、そして現在でも意外と沢山いたのだった。

 それからは勉強した。大学に入るまでに習うことも含め、また一からやり直す気持ちで取り組んだ。その全てが有益だったとは言い難い。僕の疑問が「価値の一元性」批判にあると分かるまで、言ってしまえば去年1年間は無駄だったとも言える。僕の中心的な問いは「善さとは何か」という非常に漠然とした問いである。この問いをより細かく分けて考えていくと、「何をもって『〜〜は善い』と言えるのか」「『〜〜は善い』と発言することで、我々は何をしようとしているのか」「善はどのように定義できる(あるいはできない)のか」「善とは本当に我々が求めるに値するものなのか」「実際に為された行為における善と、意志における善のどちらが優れているのか」などといったように、より具体的で細分化された問いになっていく。こうした作業の中で、自分が一番研究したいこととは違った方向に進んでいたのが去年だった。
 だが去年勉強したことがあるからこそ、これからどのように、何を勉強していくのがいいか分かってきたのも確かである。そんなわけで、今はまた去年とは異なる分野に取り組んでいる。カッコよく言うなら、これこそ「失敗は成功のもと」ってやつだ。…カッコついてねぇな。

 まとめると、僕は大学の講義にあまり興味を持てず、研究どころか勉強もロクにしなかった。しかし自分の疑問に正直になってみた結果、自分が勉強不足ゆえに勉強を軽視していたこと、まだまだ勉強できる余地が十分すぎるほどあること、そしてそれがいわゆる研究というやつらしいことが分かった。これをやらない手はない。
 仮にどこかの企業に就職していたとしても、僕は絶対にこの「価値の一元性への問い」を考えずにはいられない。そしていずれにせよ勉学の道に進んでいただろう。今まで色々なことをやってきたけれど、この疑問だけは頭を離れなかった。どうせ他の生き方を選んだところで、この問いからは逃げられない。それならもう自分の人生全賭けしてでも、やってやればいいじゃないか。たとえ賭けに負けたとしても、やって負けたなら諦めもつく。その時はその時でなんとか生きていくだろう。

 最後にある曲の歌詞を一部引用して終わる。やっぱり音楽っていいですよね。歌手は、もはやラッパーの枠を飛び越え一流のアーティストである、KREVA。曲は『居場所』である。

“無駄なことはない それは嘘だね
ただぼっと眺める時間を減らせ
その手動かせ 黙ることはできないんだろう
壁を動かせ 守るだけじゃ増えない居場所”
ヘイー♪

https://www.youtube.com/watch?v=3Ac82nTf8Zg