Urbanus2のブログ

個人的な趣味全開のブログであるため、読む人をかなり選ぶことでしょう。その辺をご理解いただいた上で拝読していただければ恐悦至極です。

「虫、大丈夫ですか?」

昨日のバイト中に、突然そう聞かれた。「虫の、何に関して、大丈夫なのかと聞きたいんだ?」と思いつつ指差された方向を見ると、天井から蜘蛛がぶら下がっていた。どうやら「虫触れますか? 触れるなら、あの蜘蛛をどうにかしてほしいんですけど」という意味だったらしい。

ムカデのような視覚に強烈に訴えるフォルムをもつ虫ならともかく、蜘蛛はただ蜘蛛だ。しかも全長1.5cmほどである。それでも苦手な人は苦手らしい。できれば外に放ってやりたかったが、生憎バイト中である。他にもやることはあるし迂闊に外には出られない。そこで仕方なく紙に包んでゴミ箱に捨てた。

頼んできた相手は「すご〜」などと言っていた。何がすごいのか。あの蜘蛛は全く抵抗しなかった。大人しく紙に包まれて、大人しくゴミ箱に捨てられた。紙に包まれる前だって何かをしたわけではない。ただ通気口の隙間から偶然か不運か、糸を垂らして降りてきただけである。誰かや何かに迷惑をかけたわけでもなかった。あいつは何も悪いことなどしていなかった。ただそこに居ただけなのに、蜘蛛だというだけで忌み嫌われ駆除された。

先日の記事で「人間は酷く醜く、かつこの上なく美しい生き物だ」と書いておいてなんだが、やはり人間は度し難い。より正確に言えば、人間よりも他の生き物の方がよっぽど俺は好感を持てる。彼らは本能というただの反射にせよ、なんらかの感情のようなものによるにせよ、正直に生きている。
「そうあれかし」と組み込まれたものにせよ、ただ餌を食べたいから餌を食べ、巣を作りたいから巣を作り、繁殖したいから繁殖する。素直で誠実な生き方である。俺は彼らのそういう生き方が(たとえそれらが知能の低さや環境への適応等の結果であるとしても)とても羨ましい。それと同時に、そんな生き方を見ていると心が落ち着いてくるのである。
彼らは俺たちのように目の前の小さな目的達成のために生きているのではない。ただ生きたいから生きているのだ。未来のアレコレや昔のコレソレに思い煩いながら生きてなどいない。ただ“この”瞬間だけを見据えて生きている。そうした生き方が、純粋に羨ましく、尊いものに思える。そんなことを考えていた。

人間嫌いでなぜ悪い?〜だから僕は人間が嫌い〜

僕は憚ることなく「人間は嫌いだ。短期的な利益しか求めることが出来ず、長期的な視野に立てない。利他的行為が結局のところ自己利益の増大に繋がるのにそれを考えず、目先の小さな利益に飛びつく。ゴミにも劣る下等な生き物だ。いや、有機肥料くらいにはなるか」と言う。

すると人は言う。「でもあなたも人間ですよ」と。そこで僕は考える。「この人は何を言いたいのだろうか」と。「あなたも人間なのだから、そんなこと言ってはいけませんよ」だろうか。「あなたも人間なのだから、そんな言葉は自分すらも傷つけてしまいますよ」だろうか。「あなたも人間なのだから、その言葉の刃はあなたの喉元にも突きつけられるのですよ」だろうか。「あなたも人間なのだから、その言葉はそっくりそのまま自分に返ってきますよ、偉そうにしてますけどブーメランぶっ刺さってますよ」だろうか。いずれにしても、「そんなこと言ってはいけませんよ」という主張が、「でもあなたも人間ですよ」には含まれているように思われる。

さて、僕は自分自身も人間であるという理由だけから、「人間なんかゴミだ」というべきではないのだろうか。これに対してはスコットランドの哲学者デイビッド・ヒュームが強力すぎる味方となってくれる。彼は主著『人間本性論』において、ある事実判断(「aはbである」、など)から、ある価値判断(「だから、aはcしなければならない」、など)を導くことはできないと述べた。これはかなり鋭い指摘であり、彼がこの法則を発見して以来、未だ乗り越えることは困難だとする見解が多い。もちろん、それに「本当にそうか?」と疑問符を投げかける者も多いのだが。ちなみにだがヒュームの法則とは言うものの、この名前自体はヒューム本人が命名したものではなく、別の人間が名付けたものである。ちょっとややこしい。

話を戻そう。「僕は人間である。だから僕は「僕は人間なんか嫌いだ、バカだ、ゴミクズだ」と言うべきではない」という主張は、妥当とは言えない。確かに、「僕は人間である」という前提の他に、「僕は自分自身の尊厳を貶める言動を避けている(という事実)」や「人間をバカだとみなすことは、人間を貶める行為である(という事実)」などの前提がいくつかあれば、冒頭の主張はある程度の妥当性を得るかもしれない。
だがそれでも問題は残る。これら諸々の前提は、本当に真であろうか。前提が偽であるならばそこから導かれる結論もまた偽とならざるを得ない。事実、僕は自分自身の尊厳を貶めることを避けようとはしないし、自分自身の尊厳というものにあまり興味もない(そもそも、尊厳というものの存在自体に対して僕は懐疑的である)。それゆえ僕が人間を如何にバカにしようと、それを規制する合理的な根拠などこの世界、いや宇宙のどこを探してもありはしないのだ。


…第一、「自分もそんな愚かで浅ましい人間の1人だ」ということを、僕が了解していないとでも思ったのか。だから、「人間はバカだ」と僕は思うのである。人間が、そして僕がゴミにも劣る存在だなんてことは、誰よりも僕自身が一番知っているのだから。

はじめに

またブログを書こうと思った。理由は一つで、「140字は短すぎる」だ。
 
僕はツイッターを多用している。もちろん最近ではスレッド機能により長文をいくつかのツイートに分割して投稿することもできる。しかしそれはいけない。それではダメなのだ。視覚的に断絶された文章は書き手・読み手双方の思考の糸をも断絶させる。一貫した事柄を書き記したいならそれは分断させてはいけないのだ。まとまりを持った一箇の文章はそれ自体として1つの系である。それを分けたところで何が見えてこようものか(なんて書いているうちにもう200字をとうに超えた)。
 
そう、ダラダラと心に移りゆくよしなしごとを書き綴りたくなった。だからブログを書く。ブログは僕の原点とも言える。インターネットに自ら初めて参加した際に使った最初のツールである。原点回帰だろうか?いや、回帰したところで何を得られるというのだ。ただ懐かしくなって書いているのだ。あとは、ツイッターのTLにダラダラと僕の独り言を垂れ流すのが申し訳ないからでもある。そんなところで十分だろう、理由としては。
 
もしこのブログを読まれた方がいたとして、注意して頂きたいことがある。それは「ここで書いてある内容が僕のすべてだと思わないこと」である。
これはツイッターをやっていて驚いたことでもあった。僕は自分でも認めるほどのかなりの気分屋で、その時々で気分がコロコロ変わる。なので何かに怒っていたり、嬉しがっていたりしたとしてもそれはそのツイートをしたときの感情でしかない。それがいつまでも持続しているわけではないのだ。
だがなんということか。世の中には僕のツイート=僕が感じ・考えていることの全て、だと勘違いなさる方が一定数いらっしゃるのだ。何かに怒ったツイートをすれば、その怒りがいつまでも僕の中にあり、何かに喜んだツイートをすれば、その喜びがいつまでも僕の中にあると思う人が。そんなわけない。あくまでそのときに思いついたことをただ書いてるだけだし、そこに大した意味はない。ふざけるな、と言えるものなら言っておきたいものである。
 
なおブログの投稿は不定期の予定である。というかブログを定期的に書くという思考が理解できない。そんなに書く内容が頭に溢れかえっているなら今すぐ文筆家にでもなるべきだ。恐らくあぶく銭程度なら稼げるだろう。
また内容も様々であると予想される。以前のブログでは、好きな曲の歌詞貼り、日々の暮らしの中で思ったこと、その他諸々と雑多な内容だったが、それはこのブログでも同様だと思われる。特に何か目的があるわけではない。ただ、書きたいから書く。そんなところである。
 
おわり