Urbanus2のブログ

個人的な趣味全開のブログであるため、読む人をかなり選ぶことでしょう。その辺をご理解いただいた上で拝読していただければ恐悦至極です。

人間嫌いでなぜ悪い?〜だから僕は人間が嫌い〜

僕は憚ることなく「人間は嫌いだ。短期的な利益しか求めることが出来ず、長期的な視野に立てない。利他的行為が結局のところ自己利益の増大に繋がるのにそれを考えず、目先の小さな利益に飛びつく。ゴミにも劣る下等な生き物だ。いや、有機肥料くらいにはなるか」と言う。

すると人は言う。「でもあなたも人間ですよ」と。そこで僕は考える。「この人は何を言いたいのだろうか」と。「あなたも人間なのだから、そんなこと言ってはいけませんよ」だろうか。「あなたも人間なのだから、そんな言葉は自分すらも傷つけてしまいますよ」だろうか。「あなたも人間なのだから、その言葉の刃はあなたの喉元にも突きつけられるのですよ」だろうか。「あなたも人間なのだから、その言葉はそっくりそのまま自分に返ってきますよ、偉そうにしてますけどブーメランぶっ刺さってますよ」だろうか。いずれにしても、「そんなこと言ってはいけませんよ」という主張が、「でもあなたも人間ですよ」には含まれているように思われる。

さて、僕は自分自身も人間であるという理由だけから、「人間なんかゴミだ」というべきではないのだろうか。これに対してはスコットランドの哲学者デイビッド・ヒュームが強力すぎる味方となってくれる。彼は主著『人間本性論』において、ある事実判断(「aはbである」、など)から、ある価値判断(「だから、aはcしなければならない」、など)を導くことはできないと述べた。これはかなり鋭い指摘であり、彼がこの法則を発見して以来、未だ乗り越えることは困難だとする見解が多い。もちろん、それに「本当にそうか?」と疑問符を投げかける者も多いのだが。ちなみにだがヒュームの法則とは言うものの、この名前自体はヒューム本人が命名したものではなく、別の人間が名付けたものである。ちょっとややこしい。

話を戻そう。「僕は人間である。だから僕は「僕は人間なんか嫌いだ、バカだ、ゴミクズだ」と言うべきではない」という主張は、妥当とは言えない。確かに、「僕は人間である」という前提の他に、「僕は自分自身の尊厳を貶める言動を避けている(という事実)」や「人間をバカだとみなすことは、人間を貶める行為である(という事実)」などの前提がいくつかあれば、冒頭の主張はある程度の妥当性を得るかもしれない。
だがそれでも問題は残る。これら諸々の前提は、本当に真であろうか。前提が偽であるならばそこから導かれる結論もまた偽とならざるを得ない。事実、僕は自分自身の尊厳を貶めることを避けようとはしないし、自分自身の尊厳というものにあまり興味もない(そもそも、尊厳というものの存在自体に対して僕は懐疑的である)。それゆえ僕が人間を如何にバカにしようと、それを規制する合理的な根拠などこの世界、いや宇宙のどこを探してもありはしないのだ。


…第一、「自分もそんな愚かで浅ましい人間の1人だ」ということを、僕が了解していないとでも思ったのか。だから、「人間はバカだ」と僕は思うのである。人間が、そして僕がゴミにも劣る存在だなんてことは、誰よりも僕自身が一番知っているのだから。